1. 十六歳の誕生日

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 ――五月のよく晴れた朝。
 窓を開けると、雨上がりの空気が清々しい。
 昨夜は雨が降っていて、窓の外がうるさかった。
 でも今日は眩しすぎるくらいの太陽。

 今日は私の十六歳の誕生日だ。とはいえ、昨日という、何もなかった日の続きにしか過ぎない。
 嬉しさもない。ずっと、生まれて来たことを喜んだことなんてない。
 私は着替える気にもなれず、カーテンも束ねずにパジャマのままベッドで寝転がっていた。
 そして、ベッドの上から窓枠に切り取られた四角い空へ腕を伸ばし、指の間を眺めていた。
 眩しくなって目を閉じると急に強い風が吹き、白いカーテンが大きく翻った。
「……」
 誰かが私の名前を呼んだような気がした。
 それはほんの微かな声で、私は耳を澄ませる。
「気のせい……?」
 もう声は聞こえない。
 でも、何だか変な感じがする。人の気配。
 振り返ると、少し離れて男の人が立っていた。戦慄が走る。
「きゃ……」
「ごめん、驚かせてしまって」
 ここは二階だ。どうやって入って来たの、この人。
 でも、叫ぼうにも声が出ない。
「初めまして、碧」
 どうして私の名前を知っているのだろう。
 知り合いだろうか。私は男性の顔を見た。知らない人だと思う。
 こんな綺麗な顔立ちの人は見たことが無い。
 白い肌に映える黒い髪が、風に小さく揺れていた。そして印象的な緑の瞳。
 初めまして、と言うのだから、恐らく初めて会うのだろう。
「これを受け取って欲しい」
 彼はポケットから小さな箱を取り出した。
 差し出されたそれを、私は受け取った。
 何故だろう、もう怖くはなかった。
「ありがとう」
 彼は礼を言って微笑んだ。
「それから、もうひとつ」
「何ですか?」
 やっと声が出た。
「十六歳の誕生日おめでとう」
「……」
「それじゃ、僕は帰らなきゃ」
 帰っちゃうの、と言ってしまいそうになった。
 こんな不審者相手にどうかしてる。危害を加えないで帰るって言うんだから、そのほうがいいじゃない。
「ごめんね」
 彼はそう言うと、窓枠に足をかけて宙に飛んだ。
「ちょ……!」
 こんなところから飛び降りたら、怪我してしまう。
 慌てて窓の下を見たけれど、そこには誰もいなかった。
 まるで消えてしまったみたい。
 そんなはずはない、人は突然消えたりしない。
 ただ運動神経が抜群にいい人なんだろう、そう思うことにした。

「何だったんだろう……」
 そう思ってベッドを振り返ると、ぐちゃぐちゃのタオルケットの上にさっき貰った箱が載っていた。窓に駆け寄った時、無意識に置いたのだろう。
 私はその箱を手に取ると、開けてみることにした。
 包装紙で包んであるわけではないし、リボンやシールも貼っていない。プレゼントというわけではなさそうだ。
 木製で、飾りの無いシンプルな箱だった。
 机に置いて蓋を持ち上げると、中には紫の布に包まれた小さいものが入っていた。
 そっと布を広げる。
 出てきたのは指輪だった。幅が一センチくらいある金色の指輪に、蔦のような意匠が施されている。中央には緑の大きな石が嵌め込まれていた。透き通った緑は彼の瞳に似ていた。エメラルドだろうか。
 夢でも見ているみたいだ。
 この見るからにサイズの大きすぎる指輪が無ければ、この出来事が現実だと思わなかっただろう。
 もしアニメだったら、この指輪から案内役の小動物が出てきて、この先の冒険について案内してくれる。
 でも、もちろんそんなことは起きない。
 私はずっとこの部屋にひとりでいる。私はどこにも行かない。誰にも会わない。
 だけど……あの人は、本当にいた。
 この指輪が証明している。
 見つめていても、指輪は何も語らない。
 ころころと手の平に転がす。
 サイズは大きいが、なんとなく左手の中指に嵌めてみた。
 すると、しゅるっと指輪が縮んで、ぴったりになった。
「なにこれ」
 ちょっと焦ったが、引っ張ったら難なく外せた。良かった、外れなくなったらどうしようかと思った。
「伸び縮みする指輪か……。ファンタジーっぽい」
 アニメの見過ぎかもしれない。
 だけど、目の前で「ありえないこと」が起きたのは事実だ。
 どう受け止めたらいいのだろう。
 今日は何か、特別な日でもあったかな。
 クリスマスの贈り物なら、サンタクロースだけど……。
 あ。私はやっと思い至った。
 彼も言ってくれたじゃない。「誕生日おめでとう」って。
 何もないはずの誕生日。
 今まで、何もいらないと拒絶してきた。
 だからケーキもない。プレゼントもない。
 祝ってくれる親も、友だちもいない……。
 いないはずだった。

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