第八章

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 私は社会復帰がしたかった。仕事をしたい。働くことは好きだし、世の中の役に立ちたい。生活保護も早く抜けたい。
 だけど、先生はまだ働くのは無理だと言う。
 それなら、自宅療養の時間を何か有意義に遣えないかと思った。例えば、就職に役立つような資格やスキルを学ぶとか。
「先生。私、休んで家にいるんだから、何か勉強でもしようかなって思うの」
「何を勉強したいの?」
「別に何もしたくないんだけど、こんなんじゃ、就職するとき困るかなあって」
「まだまだこれじゃあ、仕事は無理だと思うよ。仕事のことは、もう当分考えちゃだめ」
「そんなぁ……」
「もし習い事とかするなら、頭を使うようなことはだめだよ。ゆっくり体を動かすのはいいと思う。ヨガとか」
 ヨガか。遠い昔、マタニティヨガで全然ポーズがとれなくて、ひたすら苦笑いするしかなかった思い出しかない。
「私、ものすごく運動だめなんですけど」
「何言ってるの、だからやるんじゃない」
「だって、ものすごく体が固いんです」
「だからやるんじゃない」
 先生にそう言われたら、納得するしかない。
「そういうものですか」
「そういうものだと思うよ」
 病院の帰り、私は書店でDVDつきのヨガの本を買った。家に帰って子供たちと一緒にやってみたら、やっぱり体が固くて全然できず、三人で笑ってしまった。爆笑だ。
 ちゃんと指導してもらえば違うのかもしれないけれど、自分ではうまくできないし、とても続けられず、ほんの数回試しただけでそのDVDはお蔵入りになった。

 私にはわかっていた。先生と私は友達じゃない。仲がいいと言っても、お互いの立場の枠を越えたりはしない。それはお互いそう思っているはずだ。私は立場をわきまえなくてはならない。私は先生のことが大好きだけれど、この関係もいつかは終わる。
 それでも先生のことがとても好きで、いつも笑っていて欲しくて、私が笑顔にしたくて、それを近くで見ていたくて……。先生が私の言葉で笑う度、こんなふうにずっとずっと笑って欲しいと強く思った。
 わかってる、先生に対してそんな気持ちを抱いちゃだめだ。医療者と患者の間に余計な感情を持ち込んだらだめ。何度だって、そう思って。それはきっと勘違いだから。
 でも、本当に勘違いなの? この気持ちが勘違いなら、本物の方が嘘でしょう?
 そういう気持ちがあったせいか、ふと、無意識に口から言葉が飛び出した。
「先生、私のお嫁さんになって」
 先生は驚いた顔をしたが、私もびっくりした。
 それは無理だとか、実は恋人がいますとか、女同士なのにとか、あなたには彼氏がいるでしょとか、先生は言わなかった。ただ、微笑んで、
「それもいいかも」
 と言ってくれた。私は、拒絶されなかったことにホッとしたけれど、急に自分の身の上を思い出して、
「でも、今の私じゃ、先生を養ってあげられない……」
 と俯いた。
 健康だったとしても、私じゃ医師の収入を超えるのは無理である。自分ひとり生活していくことすら怪しいものだ。さらに子供もいる。
 だけど先生は言った。
「佐藤さんなら大丈夫だよ」
 微笑みが、優しくて眩しかった。
 ふざけて言ったことではないけれど、でも、本当に私のような人間のところに来たら彼女は幸せになれないだろう。もし私が男だったらきっとこんな関係にはなれなかっただろうし、警戒されただろうけれど、でも、もし男だったら。患者じゃなくて、もっと先生にふさわしい立場の人間だったら。
 もっと、先生のことを支えて、幸せにできたのかなって思った。

「私はこれからどんな風になるんだろう?」
 先生に聞いてみた。もちろん完璧な予言は誰にもできない。それがわかっての質問である。
「何か月も入院するほど深刻な悪化はせず、このまま薬飲みながらいけるんじゃないかなと思う」
「このまま?」
「うん。長期的にみれば、通院間隔はだんだん開いていくだろうけどね。一か月に一回とか」
「社会復帰とかは?」
 私が聞くと、
「佐藤さん、ちゃんと社会にいるでしょ」
 と、先生は言った。私はその言葉に打たれた。彼女は、こんなに何の役にも立たない、迷惑な存在でしかない私でも、社会の一員であることを認めてくれているのか。
「また、仕事とか、できるようになったりするのかな」
「働きたいの?」
「働かないで生きているのが申し訳ない気がするの。違う先生になったら、今すぐ働け! って言われるかも」
「それは個人の考え方だからわからないけど、申し送りしておくよ。しばらく働かなくてもいいって言ってありますって」

 北国の冬が終わろうとしていた。
 私は長く陰鬱な日々に疲れ、
「きっともう、桜なんて咲かないよ……」
 とぐったり呟いた。
 先生は、
「そんなことはないよ。大丈夫。絶対、桜は咲くからね」
 と言って励ました。受験生を励ますみたいな言い方である。
 いつかは必ず春が来る。本当だろうか。
 だけど春はいいことだけを運んでくるわけではない。
 もしかしたら、春なんて来ないほうがいいのかもしれない。
 この春、小野寺先生はいなくなってしまう。この病院に来る若い先生は、三年で他の病院に異動になる。いつか他の患者さんがそう話しているのを聞いた。そうして、どうやらそれは今年のことらしかった。

 三月になったばかりの診察の日。
 診察の最後に、先生は改まった様子で言った。
「佐藤さんにはとても言いにくいのですが、今月末で転勤になります。今までありがとうございました」
 こんな日が来るということはわかっていたはずなのに、少しも衝撃から心を守ることができなかった。本当に、小野寺先生がいなくなる。
 三月の受診は今日だけだ。もうこれで最後なのか。
「これは、聞いて良いのかわからないけれど、どこに行くの?」
 そう私が聞くと、先生は遠い街の名前を言った。
 元気な時期なら無理すれば通えない距離ではないが、それにしても遠い。もしも何かあった時に、これではどうにもならない。
「追いかけて行けないね、遠すぎるよ……」
「そこまで言っていただけるなんて、嬉しいです。ありがとうございます」
 静かに微笑む先生を見ていたら、他人行儀が寂しくなった。
 本当は私、最後まで先生に治療して欲しかった。どこにも行かないで、って泣きたかった。でも、そんなこと、言えない。
「先生がいるうちに、病気が良くならなくて、ごめんね」
 やっとそれだけ口にしたら、先生はちょっと驚いた顔をして、
「そんなこと考えてたの」
 といつものように笑ってくれた。

 あれで最後だったんだと納得したつもりでも、実際に月末に近くなると先生にどうしても会いたくてたまらなくなった。そしてとうとう、もう一度受診した。
「眠れないから」などともっともらしい理由をつけてはみたが、それは明らかに口実だった。嘘ではないけれど、眠れないなんていつものことである。
 会ったからといって、何を言いたいかもわからなかった。ただ会いたかった。最後ならなおさら、わがままを許して欲しい。そんな身勝手なことを思った。
 
 そうしてやっと会えたのに、実際に先生を前にすると何も話せなかった。
 今度こそ、これが本当に、最後。そう思うと胸が詰まって言葉が出ない。
 先生は全部わかっているみたいで、向かい合ったまま、二人とも少しの間黙っていた。
 やがて静かに、先生が口を開いた。
「私は医師で、本当は元気づける側だけど、逆に私の方が佐藤さんに励まされていたこともあったんだよ。いろいろ、ありがとう」
 それを聞いて、私はなんだか泣いてしまいそうで俯いた。声が震えてしまう。
「私、何もしてないよ」
「したんだよ」
「何もしてないのに?」
「したの!」
 先生は言い切った。
 その声に顔を上げると、先生は笑顔で、私に言い聞かせるように言った。
「縁があればまた会えるよ。元気でね」
「……うん。先生も、元気でいてね」
 きっと、私も、何もできないわけじゃない。きっと、何もしていないわけじゃない。
 心がちぎれそうな思いで診察室を出ようとする私の背中を、先生が呼び止めた。
 振り返ると、
「大丈夫。幸せは、必ず来るよ」
 そう言って先生は、小さく手を振った。
「またね」

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