病気が激しくなってから、私は異性関係が荒れていた。
どうでもいい男と意気投合し、翌朝には冷めて別れるようなこともしていた。
別に誰とでも寝たわけではない、キスもセックスもどうでもよかった。心も体も気持ちよくできる人なんてそうそういないことは、とっくに知っている。通り過ぎていくだけのことに興味は無い。
女性の友達もいたが、その頃は男性と話すほうが楽だった。彼らとはたくさん話をした。
関わるのは、ネット経由で知り合った人が多い。遠方だったりもする。わざわざ飛行機で会いに来てくれた人もいた。会ったこともないし付き合ってもいないのに、結婚しようと言った人もいた。
その頃私は、双極性障害の当事者会というものに入っていた。SNSのコミュニティで懲りていなかったのだろうか、同病者と気持ちを分かち合いたいという思いから離れられなかったのである。
やがてその代表の田中さんと連絡先を交換し、個人的に話すようになった。妻子がいたが、彼が発病した四年前に出て行ったという。子供のことをすごく大事に思っていて、時々恋しいと言って泣いていた。この人は四年間ひとりで泣いてきたのか。私はそれをかわいそうに思って、よく話を聞いた。
ある時、私は彼を慰めようとキスをした。私にとっては全然重要なことではなかった。ただの気まぐれである。
でも彼にとっては違ったらしい。
その夏はやたらと暑くて、熱中症になる人が多かった。私も連日の暑さにかなりやられていた。そんな時、彼が私と子供たちのためにと、わざわざスポーツドリンクを箱で買って家の側まで届けてくれたのである。家は教えていないので、側といっても少し離れたところだ。
私はめんどくさかった。何で赤の他人の私にこんなことをしてくれるのか、理解できない。それほど親しい友人というわけでもないのだ。だけど、遠方からわざわざ来てくれたことを考えると断り切れず受け取り、一応、丁寧にお礼を言った。
それがいけなかったのか、彼はいろいろと買い物をして届けてくれるようになった。断ってもやめてくれない。妻子と、復縁したいと言っていたのに。そして、本当かどうかはわからないけれど、妻子もだんだん心が動いている様子らしいのに。
彼は、家が遠いのにもかかわらず、何度も会いに来た。いつも食欲がない私に、ミックスサンドとプリンを買ってきた。ミックスサンドを食べないと、プリンを食べてはいけないと言う。「子供扱いですか」と苦笑しながら、断りきれずにしぶしぶミックスサンドを食べた。
彼の思いやりに感謝しつつも、罪悪感を感じていた。あの日、余計なことをしたのを悔やんだ。
会いに来ても会わなければいいのだろうか。仕事が終わった後、遠いところから来てくれている人の好意を、無視していいのか。
こんな正常な判断力がない状態では、どうしたらいいのか、わからない。
診察の時、私は彼のことを話せなかった。
私はすぐに顔や態度に出るほうで、その日はいつもと違うと思ったのか、先生の方から、
「どうしたの? 何かあった?」
と聞いてくれた。でも、
「私は、とても悪いことをしているんだと思う」
それだけしか言えなくて。
先生は心配して、内容を聞こうとした。私が黙ってしまって、話しかけても何も言わないから、先生は困っていた。
少し考えて、先生が、
「じゃあ、二週間後までに悪いことはやめているって約束して?」
そう言った時。自分でも予期できなかったけれど、突然胸の中が噴き上がった。
「嫌だっ! もうここには来ないからっ!」
私はそう叫んで立ち上がると、乱暴な態度で診察室を出た。
理由もなく、悲しかった。もう、この病院には来られないと思った。先生にも、もう会えない。
そう思っただけで、心が砕けそうになる。
私は病院の近くにある公園まで歩いた。歩いていたら、興奮が少し落ち着いてきた。
だけど同時に、何か別の気持ちがこみ上げてきた。
私はベンチに座り、バッグからスケッチブックを出すと、先生に宛てて遺書を書いた。
小野寺先生ごめんなさい
ありがとう
本当に大好きでした
それから、持っていた薬を飲んだ。いつも、飲むと起き上がれなくなる薬だ。今思えば死ぬにはあまりに微量だが、当時は大変な量だと思っていた。
彼からいつもの連絡があった時、すでに私は朦朧としていた。様子がおかしいのに気づいた彼に問いただされ、私は公園にいることを話してしまった。誰かに最期を知って欲しかったのだろうか。
それから意識が完全に途切れ、どのくらい経ったのだろう、あたりはすっかり夜で、駆けつけた彼に揺さぶられた。
すっかり夜になっていた。
「しっかりしろ!」
彼の声が聞こえた。どうやら死ねなかったらしい。
私は笑った。何だか現実感がなくて可笑しかった。
「とりあえず車に乗って」
抱え上げられ、車の後部座席に乗せられた。
彼は病院に電話をかけた。
「何をどれくらい飲んだの?」
聞かれて答えると、病院では
「そのくらいなら、家で様子をみて」
と言ったらしい。
小野寺先生はいないようだった。
しばらく押し問答をしていたが、彼も諦めて電話を切った。
私は自宅に送り届けられた。
子供たちは父親との面会のために、夏休みの間泊まりに行っていた。養育費を貰えなくても、子供たちが会いたがれば会わせている。会いたいときは会いに行ってもいいというのが離婚するとき子供たちとした約束だ。
子供たちがいない静かで空っぽな家で、私は薬のためか、死んだように眠った。
数日して動けるようになったので、病院へ行った。
もう来ないって言ったのに、と思うと、先生に何て謝ったらいいのか。先生は許してくれるだろうか。別の病院に行けと言われるかもしれない。
しかし先生は、いつもと同じように私の名前を呼び、迎えてくれた。
診察室に入ってすぐ私は頭を下げた。
「この間はごめんなさい」
先生は笑顔で言った。
「何のこと?」
つい先日のことだし、カルテにも書いてあるだろう。わからないわけはなかった。とぼけてくれる優しさがありがたかった。
私は、今度はちゃんと先生に状況を説明した。
自分の軽率な行動で、復縁できたかもしれなかった彼と妻子の間に入ってしまったこと。自分は彼に愛がないが、かわいそうで放っておけなかった。流されるままつきあい始めることになってしまい、これからどうしたらいいのかわからない。合わないと思うところも、嫌なところもある。束縛されることに疲れてもいる。同じ病気であるということも心配だ。愛されている感覚は嬉しいが、それだけだ。私はこのままつきあっていていいのだろうか。
診察というより恋愛相談だが、先生は話を聞いてくれた。
「いいかどうかというより、自分にとって、その人が必要かどうかだよ」
先生はそう言った。なんとなく、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
私は相変わらず混合状態でいることが多く、彼と話していても些細なことで不安になったり苛立ったりした。怒ると言葉で追い詰めてしまう。
束縛の強い彼は、私が実家の母と出かけることすら嫌がった。どこへ行くのでも、自分とだけ出かけて欲しいというのだ。私はそういうところが苦手だった。束縛されるのには慣れていない。
ある時、彼には言わず、母と紅葉を観に行った。近距離だし、わざわざ言うほどのことではないと思った。しかし運悪く車ですれ違ったらしい。彼は激怒して、SNSで、裏切られたと愚痴を呟いた。私はその書き込みに気づいてうんざりした。彼はその後もずっとSNSに恨み言を書き続けていた。自分も自由にどこにでも行くと書き、実際ひとりで海を見に行ったようだった。勝手にすればいい。私は別に単独行動をされても気にならないから。私は家に帰ってからも、反応せずに放っておいた。
やがて彼が家に来て、私をぐちぐちと責めた。何なの、この人。めんどくさい。彼の言葉がいちいち嫌味で、私は苛立ちを抑えきれなくなった。遂にキレて、彼が何も言えなくなるほど言葉を捲し立てた。
「わかったよ……ごめん」
プライドの高い彼があっさり謝って帰って行ったので、少し変な感じがした。少し言い過ぎたかもしれない。でも久しぶりに胸がすっとした。もうこれで別れてしまってもいい。
特に音沙汰もないまま、週末になった。あれからうつ状態に入っていたらしい彼は自殺を図った。
実行する直前に電話をかけてきたが、私が子供たちと実家にいるのを知り、ますます気持ちが落ちたようだった。私は私で病気だし、親に心配されている身の上である。何でそんなに親に会うことを嫌がるのか理解し難い。
次に電話が来たらちゃんと別れ話をしようと思っていたが、彼が先に自殺予告を始めたので、まずは黙って聞くことにした。私は誰に対しても、自殺をしたい気持ちそのものは、否定しないことにしている。それは、実際にすでにある感情だからだ。否定されたら死にたい気持ちが無くなる、ということは滅多にないだろう。ただ、自分の気持ちを否定されたという事実だけが残ってしまう。私はただ聞いて、自分の気持ちを伝えるだけだ。それしかできない。
「悲しいから、私より先に死ぬのはだめ」
と、私は言った。本当に死ぬかはまだわからないと言っていたけれど、夜になって耐えられなくなったのだろうか、彼は遂に決行した。
とはいえ自殺未遂自体は二度目である。一度目は浴室で腕を切ったもので、その跡を自慢げに写真に撮り、人にも送って見せていたから知っている。あれは武勇伝なんだろうか。
今回はとても苦しかったようで、死ねるまで耐えられず、玄関を開けて隣の家の人に助けを求めた。その後、呼んで貰った救急車で病院に運ばれたらしい。
昼の電話が気になって心配していた私に、
「今は内科に入院していて、数日したら通っている精神科に転院する」
と、彼本人から電話が来た。本人が電話をできるのだから、今すぐ死んでしまうことはないのだろう。
けれど、私はかなり動揺した。私は人が死ぬのは嫌である。自分は死にたがりなのに、勝手な話だけど。
彼が死のうとしたそもそもの発端は、私が黙って母と紅葉を見に行ったせいかもしれない。理不尽だとは思ったけれど、自分が原因で人が死のうとするなんて、辛い。
心配で、会いに行きたかったけれど、今はずっと父親がついているらしい。私はまだ彼の親に紹介されていなかったから、会いに行くわけにはいかなかった。
心が落ち着かなかったので、診察日を待たず私は受診した。何て言えばいいのかわからない。この気持ち。もやもやとして。
診察室に入るなり私は言った。
「彼氏が自殺未遂しました」
先生は驚いて、それから息を吐いて言った。
「卑怯だ!」
私は、ああ、そうだ、私のもやもやはこれだ、と思った。彼は卑怯だ。本当に、そうだ。
先生は、私よりも、私の気持ちを知っているのかもしれない。
私は経緯を説明した。少し様子がおかしかったようで、先生に心配された。
「大丈夫? 少し、薬出しておこうか?」
「お願いします」
知らせを聞いてから眠れていなかったし、ざわざわする気持ちを落ち着かせたかった。
精神科に移った彼は、毎日電話をかけてきた。多くの病院がそうかと思うが、彼の通う病院の閉鎖病棟は、携帯やスマホを持ち込めない。公衆電話を使える時間は決まっている。ひとり十五分だ。彼は毎日同じ時間にかけてきた。公衆電話からだから、スマホにかけると十五分でも高額になってしまう。家の電話にかけたほうが圧倒的に費用がかからない。従って、その時間に家にいることを求められた。
正直、また束縛か、しんどいな、と思った。
でも、相手はつい先日死のうとした人である。我慢するしかないのか……。
話すのは主に入院中の何でもない出来事だったが、入院して数日経った頃、彼が私の子育てについて口を出した。
「君の子供たちは、しつけがなってない。甘やかしすぎだ。君は母親として失格だ」
私は、子供たちに対して優しく接してくれる彼が、そんな風に思っていたことに驚いた。それまでは、病気のせいで思い通りに子育てできない苦しさを、理解してくれていると思っていたから。子供たちに対しても暴言だと思う。私は、しつけが悪いとは思っていなかった。むしろ行儀も勉強も、よく褒められる子供たちだった。子供たちも、精一杯やっている。思いやりを持ち、家族で助け合って生きている。
私は目の前で何かが崩れていくような気がした。前が見えなくなった。震えた。何て言って電話を終えたのかも覚えていない。彼にとっては助言のつもりだったかもしれないが、私は不意に切りつけられたように、酷く傷ついてしまった。
もう無理だ、彼とは別れようと思った。私と子供たちのことを理解してくれない人とは、一緒にいられない。別れてまた自殺を図られても、それはもう、仕方がないことだ。こんな思いじゃ、私の方が死んでしまう。
翌日の電話で私は、彼に別れようと言った。そして毎日、日中は不在にした。スマホにも出なかった。電話の時間に拘束されないことが、こんなに楽なのかと思った。閉鎖病棟に入院しているのだから、すぐには訪ねてくることもないだろう。
数週間経った。そろそろ来るかと思っていたけれど、やっぱり彼は病院に外出届けを出して会いに来た。入院していても、主治医の許可があれば外出や外泊もできる。それがリハビリになるからだ。もう病状は落ち着いたと判断されたのだろう。彼の主治医は、彼が元妻子とのことを思って自殺未遂をしたのだと考えていた。まだ私の存在は知られていなかった。彼も私に会うとは言わず、自宅に帰ると言って出てきたらしい。もし、彼の主治医が詳細を知っていたら、外出の許可は下りなかっただろう。
彼は青白い顔で、表情にも生気が無く、ふらふらと今にも倒れそうに見えた。それが演技だったのかどうかはわからない。別れてせいせいしていたとはいえ、自殺未遂以来会ってなくて心配もしていたので、大丈夫かと心配になった。
「この間は、俺が悪かった」
「別れたくない。許して欲しい」
実際に会って何度も頭を下げるのを見ていたら、だんだんかわいそうになってきて、
「わかった、もういいよ」
と許してしまった。自分の甘さに呆れたが、これが性分なのだろう。
それからもつきあいは続いたけれど、ずっとこれでいいのかと迷っていたように思う。