第四章

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 遂に月々の支払いができなくなり、クレジットカードも止まった。毎日のようにカード会社から督促の電話がかかってくる。電話が鳴るのが怖くて、子供たちが家にいる時はなるべく電源を切っていた。

 入って来るお金は、家賃にも足りない月2万円の養育費と児童扶養手当だけだった。働けないまま、子供二人を育てていくのは無理だった。親にもこれ以上頼れない。もう経済的に限界だと思い、遂に生活保護の申請をすると決意した。
 本当は嫌だった。また働いて生計を立てたかった。でも、こんな状態ではいつ働けるようになるかわからない。家事も育児もろくにできていないのだ。
 先生も、まだ就労は当分無理だと言って、私の決断を支持してくれた。私には子供たちを食べさせていく責任があった。どんなに嫌でも、頭を下げても、肩身が狭くても、耐えなくてはいけない。
 元夫からも「早く生活保護を受けてくれ」と言われていた。保護が始まったら、養育費を止めたいというのである。私は、養育費は父親の役目だと思っていた。子供たちには、お父さんが毎月きちんとお金を送って来てくれていると話してあった。子供たちもそれで父親からの愛情を感じ、精神的に落ち着いていられた面があったのではないだろうか。
 私は離婚してからも、子供たちの前で元夫について悪く言うことを避けていた。子供たちには、お父さんを信じて好きでいて欲しいから、自分なりに配慮をしていたつもりだった。
 でも彼は、「養育費を送ったって、その分保護費が減るから意味が無い」と主張した。そういうものではないと言っても、聞き入れてはくれなかった。言い出したらきかない頑固なところは、離婚しても変わらない。
 カードで作ってしまった借金については、弁護士さんと相談し、任意整理の手続きをすることにした。今のようにテレビCMで「過払い金が返って来る」と宣伝しているような時代ではなかった。自己破産以外にも方法があると、知らない人もまだ多かったと思う。私には過去に、利息が高い時代に借り支払いが終わっていた契約があった。学生時代、学費や実家の家計に充てた時のものである。そんないくつかの契約から、それなりの過払い金が出るだろうということだった。
 戻って来たお金で、今ある借金を返す。弁護士費用もその戻って来たお金で支払われるから心配はいらない。それで、借金はなんとか解消できそうだった。
 保護を受けるなら、なるべく早くこの問題を解決しなくてはいけない。保護費から借金は返せない。あくまでも保護費は生活するためのお金なのだ。弁護士さんにお任せすると借金返済の督促電話が来なくなる。自分が悪いとはいえ電話が鳴ることが不安とストレスだったから、やっと一息つくことができた。

 秋になって、任意整理も無事終わった。
 親からは早く手続きに行きなさいと何度も言われていたけど、調子が悪かったりで、なかなか生活保護の申請に行けなかった。怖かったというのも、もちろんある。生活保護って何だか怖い。監視されるっていうし、担当者もねちっこい嫌味な人が多いと聞く。
 それでも勇気を出して、やっと、市役所の保護課に行った。
 実は、この街に引っ越して来てから何度も市役所では不快な思いをしている。片手では数えきれないくらいの回数だ。それがうつにどれだけ悪影響だったことか。本当は二度と市役所などには来たくない。役所にガソリンや灯油を撒いた人のニュースを見たことがあるが、気持ちわかるよ、と思ってしまうくらいだ。
 とにかく、私にとってこの街の市役所は鬼門だった。
 私は、緊張しながら、恐る恐る、
「保護の申請をしたいのですが」
 と言った。出てきたのは、見た目からして感じの悪い年配の男性だった。その人は、大きく飛び出した眼球で私をじろりと見、低い声で言った。
「……何?」
 怖い、と思った。
 それでもどうにかもう一度、保護の申請をさせて欲しい、と言うと、嫌々な感じで奥にある面談ブースに案内された。私は聞かれるまま窮状を訴えたが、そこで散々嫌味を言われ、バカにされ、結局この日は申請させて貰えなかった。これが申請を拒否するための水際作戦というやつだろうか。なけなしの自尊心も粉々になり、惨めな気持ちに打ちひしがれて、とぼとぼと家に帰った。とても生きて行けそうにない。
 ちょうどうつに落ちがちな季節でもあり、私は悲観的になっていた。追いつめられていれば、これが原因で自殺する人だっていないとも限らない。
 任意整理でお世話になった弁護士さんに相談すると、「こういうのは自分の専門ではないのですが」と言いながらもアドバイスを下さった。担当者の名前をフルネームで聞くこと、詳しくメモをとること、会話を録音させてもらうこと。それだけで相手が態度を変える場合もあるし、それでも駄目なら、また一緒に考えましょうと言ってくれた。
 私は、今度は母と一緒に保護課に向かった。誰かがいれば違うかもしれない。この市役所は何かと言うと「親を連れて来い」と言う。こっちはもう三十路もとっくに過ぎた子持ちなのに。
 先日の目の飛び出た男性には二度と会いたくなかったし、かなり憂鬱ではあったが、申請用紙だけでも提出させて欲しかった。それができない限り、どんなに貶されるのを我慢したって、何の役にも立たない。保護を検討して貰うためには、とにかく書類を出さないといけないのだ。
 人員不足なのか同じ人が対応してくれたけれど、相変わらず、一向に用紙を出してはくれない。でも私がノートを取り出してメモをとったり、録音させて下さいと言ったことで、直接的な罵倒は減った。
 その頃には私もだいぶ、生活保護について調べていた。担当者は何度も、手持ちのお金が一万円を切るまで申請できないと言った。だけどそんな決まりは法律に無い。残り一万円を切って、どうやって家賃を払うんだ、給食費を払うんだ。病院代を払うんだ。子供にごはんを食べさせるんだ。保護が開始されるまでに、どのくらいの時間がかかる? その間はどうなるの。
 担当者は、そんなこと何でもないことのように、
「その時は保護課から貸し付けできる」
 と言う。意味がわからない。借金しろということなのか。
 担当者が納得のいかないことばかりいうので、辛い気持ちを通り越し、だんだんイライラしてきた。古い市役所はエアコンもついていなくて、秋だけど相談ブースの中は暑い。それも感情を逆なでする。
 私は遂に立ち上がり、大声でわめいた。と言っても、私はちゃんと落ち着いて話したつもりなんだけど、二人からは、いきなりつかみかかるような勢いに見えたらしい。母は私を制止しながら、担当者を責めた。
「娘は病気なんですよ!」
 担当者も、それまで大人しかった私が突然爆発したことに驚き、慌てて申請用紙を持って来た。なんだ、やっぱり私、舐められてただけじゃないか。
 それから、まだ書類も書いてないうちに、地区担当者を連れて来て紹介をし、押しつけるように立ち去った。説明も何もない、丸投げだ。そして自分はさっさと奥に引っ込んだきり、もう二度と顔を見せなかった。それからこの街を出て行くまで、一度も見かけたことがない。
 感触からして、おそらく書類さえ出せば、すぐに保護対象になる条件だったんだなと思った。
 地区担当者は、ちょっと雰囲気が暗いけれど普通のお兄さんで、手続きについて詳しく教えてくれた。そして無事に書類は受理され、調査が入り、間もなく保護が決まった。
 ほっとしたのも束の間、車で六時間以上の遠方に住んでいる元夫が、突然、わざわざこちらの街まで来て、市役所に乗り込んだ。保護を受けると親族に連絡が行くのは、ご存じの方もいるかもしれない。「身内間で援助はできないのか」というものだ。きっと、その連絡が行ったのだろう。
「自分はもう養育費を払わない。保護費でなんとかしろ」
 元夫は市役所でそんなことを言ったらしい。まさかそんなことをしたとは全く知らなかったので、後から地区担当者に聞かされて驚いた。養育費は子供の権利だと思う。払わない人も多いらしいが、本来は裁判で給料差し押さえもできるほど、守られるべきものである。
 けれど元夫は拒否し、保護課でも説得できなかった。元夫は見た目が怖いから、突然押しかけられて何も言えなかったのかもしれない。私はため息しか出なかった。
 どうにか暮らして行く目処は立ったけれど、引っ越してからずっと続いてきたストレスが私には重過ぎた。秋は容赦なく深まっていく。私はそれに合わせるように、どんどん落ちていった。
 秋生まれの私は、誕生日が間近だった。

 

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