第三章

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 少し良くなったり、ぶりかえしたりを繰り返しているうちに、いつの間にか気分の波が止まらなくなっていた。躁とうつが混ざったみたい。これをそのまま「混合状態」と呼ぶ。
 ストレスが多い日々のせいかもしれないし、わがままを言って出して貰っていた抗うつ薬のせいかもしれない。双極性障害に抗うつ薬を使うのはあまり良くない。使う時は、慎重に使う必要がある。だけど私は、一度はこれで楽になったのだからとこだわっていた。それに、抗うつ薬が全く無いと、本当に何もできなくなる。何度も減薬しようとしたけれど、その度に何もできなくなってしまうので、なかなかやめられなかった。
 私が動けなくなるということは、育児ができなくなるということだ。私一人のことではない、子供の命がかかっている。
 この頃の私は、頻繁に症状が移り変わることに振り回され、いつも限界だった。体も辛い。めまいがして、休み休みじゃないと歩くこともできない。買い物に行けなくて、食べるものにも困った。近所の人や、他の保護者の目も気になったけれど、まだ小さい子供たちに買い物をお願いするしか無かった。料理上手だったはずなのに、何かを作ることなど、とてもできない。
 心に余裕なんかはどこにもない。この状態で子供に向き合うと悲惨なことになると思った。私は子供に幸せになって欲しくて育てて来たのだ。叩いて怒鳴るために産んだのではない。だけど、私の心を知ってか知らずか、子供は子供である。育てやすいタイプの子供だけれど、それでもやっぱりまだ叱るべきことも多い。でも、カッとした自分が何をするかわからないと思うと、あまりきつくは叱れなくなった。叱るを通り越して、病的に我を忘れて怒ってしまうのが怖い。力を抜いて接するしかない。もちろんその都度話はする。理解するまで何度も言葉で伝える。二人とも理解力はあるようで、話せばわかってくれることが多かった。それでも、
「そんな理想論は甘すぎて、子供のためにならない」
 と、よく非難された。
「しつけを放棄している。ネグレクトのようなもの」
 だと。
 だけど私には、他にどうすることもできなかった。今では子供たちも立派に育ち、自分のやり方も悪くなかったと思うけれど、当時はこれでいいのか本当に悩んだ。

 その頃私は、SNSの双極性障害コミュニティに入って情報収集をしていた。他の人はどうしているかを知りたかったし、同病の人と話もしてみたかった。同じ病気でもいろんな性格の人がいる。それぞれ病気の状態も違う。けれど、同じ病気だというだけで親しい気持ちで話ができる。役に立つ話や、楽しい会話も多かった。
 だから、こうしたつながりが良くない場合もあると、最初はなかなか気づかなかった。
 私たちは距離の取り方を間違えやすい。同じ病気だから何でもわかり合えるつもりでいるけど、そんなわけないのだ。
 心に余裕が無いのは相手も同じである。双極性障害にはイライラする症状もあるけど、そのためか私は些細なことですぐ喧嘩していた。他人なら我慢できることでも、親しいと耐えられないことってある。相手もそれは同じで、しょっちゅう衝突してしまう。以前なら絶対そんなことはなかった。いつも穏やかな人間だと、自分でも思っていたのに。
 冷静になると自分が最低な人間だとしか思えない。そのコミュニティを退会するまで、私はずっと人を傷つけてばかりだったように思う。
 
 知人に影響されて、リスカをしてみたことがある。気持ちが晴れるとか、生きてる実感を感じるとか、そんな話だった。
「切る時は薬やお酒をたくさん飲むし、気分的なこともあって痛くない」
 そんなふうにその人は言った。
 でも私は不器用で、うまく切ることができなかった。血が出ることが怖かった。そして、痛かった。痛くないなんて嘘である。大嘘である。痛いものは痛い。
 それでも何度か繰り返したのは、惨めな自分が心地よかったから。堕ちていく感じに、束の間ホッとした。もしかしたら、知人の言っていたのはこの感覚なんだろうか。
 しかし診察の時、その傷が先生にバレてしまった。不器用に巻いた包帯が袖口から見えてしまったのだ。
 先生は私の手をとって、でも、優しく言った。
「これ、なあに?」
 隠そうとしたけれど、先生の力は思いのほか強かった。先生は包帯を解き、傷を見て、
「ちょっと待っててね」
 と言った。そして処置室から手当するための道具を持って来た。
 私は恥ずかしかった。こんな浅い傷。気づいてくれと言わんばかりの隠し方。自分の意思の弱さと甘えを露呈しているようで……。俯いていると、先生は消毒液の染みこんだ大きな綿棒で傷口をごりごりと擦った。えっ、痛い。とても痛い。何これ、消毒ってこういうものなの? 今まで消毒液をぷしゅっ! くらいしかしてなかった。
 処置が終わった後も、しぱらく傷口がじんじんしていた。荒療治、という言葉が思い浮かんだ。
「はい、これで大丈夫」
 仕上げに傷パッドを貼った先生は満足そうにそう言うと、他には何も聞かなかった。私は、こんなことはもうやめよう、と思った。
 その次の診察の時に傷の具合を聞かれて、私は、
「もう大丈夫だし、もうやらない」
 と言った。それきり、ずっと、リスカはしていない。

 私はいつも、先生に泣きついた。
「辛いよ、先生、何とかして」
 先生はいろいろ考えてくれていたと思う。薬が増えたり減ったり、違う薬が出たり。合う薬と量が見つかるまで、人によっては何年もかかると聞いた。
 毎日ずっと苦しい。死んだ方がマシだと思う。楽になりたい。薬を飲んでも、気休め程度にしかなっていない。
 その夜、苦しさに耐えかねた私はそれをSNSに書き込んだ。健康な人から見れば見苦しいかもしれないけれど、少しでも吐き出さないと辛すぎて。
 少し経って、それを見た友達から電話が来た。今から迎えに行くから、病院に行こうと言う。夜のことだから、もちろん外来は開いていない。朝になるまで無理だからと私は断ったが、友達は病院に電話してくれた。どんな話をしたのかは、わからない。大袈裟に言ったのかもしれないし、本当に死んだらどうするのかと問い詰めたのかもしれない。どちらにしても病院にとっては迷惑な話だ。病院の方では、とにかく本人から電話して欲しいと言ったらしい。私は躊躇したけれど、今なら小野寺先生がいると言われて、かけてみることにした。
 薬でふらふらした頭で、それでも先生に繋いで貰う。緊張した。
「小野寺です」
 初めて聞く、少し固い電話越しの声。こんなことをして、怒っているのかと少し心配になる。でもそうではなかった。先生は、
「あんまり辛いのなら、これから病院に来る?」
 と先生は言ってくれたのだ。
「……行っても、いいの?」
「いいよ。気をつけておいでね」
 それを聞いて迎えに来た友達と、タクシーで病院に行った。
 
 夜の病院は、日中と違ってとても静かだった。案内された夜間救急外来の診察室は、眩しいくらいに明るかった。ついたての向こうに、白衣を羽織った小野寺先生が座っていた。いつもと違う環境で見る先生は、少し印象が違う気がした。
 緊張と薬で頭の中がぼんやりしていたせいだろうか、私は言った。
「……髪、切った?」
 挨拶より先に、何でそんな言葉が出てきたのか、未だにわからない。先生は、
「私のことはいいから」
 と少し怒ったように言った。私、何言ってるんだろ、と思った。椅子に座るよう促され、いつものように向き合った。
 私は何か言おうとして口を開きかけたけれど、言葉が出てこなかった。どうしよう、と焦って、俯く私。先生は私の言葉を待っていたのかもしれない。少しの間があった。
 やがて先生は、俯いたままの私の顔を覗き込んだ。それから、私の膝をぽんぽん軽く二回叩いて、
「今日はもう、何も考えないで寝なさい」
 と諭すように優しく言った。私は子供のように小さく頷いた。
 気持ちが晴れたわけではないが、もう少しだけ生きようと思った。
 それから、どうやって家に帰ったか覚えていない。きっと友達が送ってくれたのだろう。
 そして、先生が言った通り、私は眠った。
 宿直はないようだから、先生がたまたま夜に病院にいたのか、わざわざ呼び出されたのかはわからない。どちらにしても迷惑な話で申し訳ない気持ちだけれど、でもあの時は本当に助けられた。

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