第二章

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 病気が悪かろうと、失恋しようと、現実はいつも容赦がない。
 とにかく生活費が心配だった。クレジットカードでのキャッシングと親の援助でどうにかしのいでいたが、そんなことがいつまでも続くわけがない。キャッシングは、結婚生活の中で元夫が生活費を入れてくれなくなった時から始まっていた。経済的DVである。離婚してからは生活のために、払っては借りることを繰り返していた。
 私は車を手放すことにした。田舎のことだからかなり不便になるが、幸い家の近くにバス通りがある。バスの本数は少ないが、頑張るしかない。

 夜眠れないのが辛くて眠剤を貰ったけれど、加減がわからず効き過ぎて起きられない。自分で量を調節してもいいと言われ、ピルカッターで割ったりして試行錯誤していたけど、疲れや体調によっても効きが変わるし、なかなか思ったように生活リズムが整わない。うつもなかなか良くならなかった。
 うつの朝は、本当に辛い。目が覚めた瞬間に、絶望しか見えない。ああ、また苦しい一日が始まる。
 ちゃんと息子を起こして学校に行かせることができない日もあった。転校する前は優等生と言われていた息子だったのに、このままでは遅刻とサボりを繰り返す問題児に思われてしまう。
 担任は、
「要くんは成績も良くて性格もしっかりした優秀な子だと思います。お母さんさえ頑張れば、東高にだって楽に行ける子ですよ」
 と言った。東高は、このあたりでは一番レベルが高い公立高校である。息子の成績がいいのはわかっているし、伸ばせるものなら伸ばしたい。子供の足を引っ張るようなことはしたくはない。でも、どうしても朝、起こして登校させることができない。起こすだけではなくて、準備させて、食事を与えて、送り出す。当たり前のことなのに。以前は普通にやれていたことができない。
 私はまだまだ頑張りが足りないのだろうか。甘えているだけなんだろうか。そんなことすら満足にしてやれなくなったことが、歯がゆくて、悔しかった。
 娘のほうも、保育所に送っていくことができなくて休ませることが多かった。朝に弱くてぐずりがちな娘には、自分がまだ健康だった時から手を焼いていた。まして今はうつである。どうしても、起こせない。変な起こし方をすると寝起きが悪くて荒れるし、そうするともう手がつけられない。絶望だ。
 無理に連れて行こうにも、もう車も無いし、保育所はかなり遠い。引っ越しの時期的に申し込むタイミングが遅かったので、遠いところにしか空きがなかったからだ。
 そんな状態だったから、保育所でも嫌な顔をされた。
「お母さんがしっかりしないと!」
 その頃はそう言われてばかりで、追い詰められる気持ちだった。できることなら、私だってそうしたい。親として、立派に役目を果たしたい。だけど、どうしようもなく動けない。頭も回らない。
 早く治りたい。仕事だって早く始めなきゃ。金銭的に本当に苦しいし、就職しないと保育所を出されてしまう。
 私がそう話すと、小野寺先生は「仕事はまだ無理」と言った。でも「保育所は親の病気が理由でも入れるよ」と、診断書を書いてくれた。
 保育士さんは嫌な顔をしたけれど、とりあえず、保育所を辞めないで済んだのは良かった。幼稚園に入れるようなお金はどこにも無い。世間では就学前に、保育所や幼稚園で集団生活をさせることが多いように思う。私もそうしてあげたかった。
 保育所では、
「紅葉ちゃんのお母さんは、仕事をしているわけではないのだから」
 と、迎えの時間を早めに設定された。十六時である。バスでの送り迎えにかなり時間がかかるから、これがきつかった。もちろん園バスなどではなく、一時間に一本の路線バスだ。お迎え時間が早過ぎて、家に帰って休むこともできない。少しでも遅れたら凄く嫌味を言われる。
 療養が理由で通っているというのに、全然療養にならない。
 家に帰れないから、保育所の近くにある図書館のロビーで、お迎え時間まで座ったまま寝ていることにした。どうせ朝連れて行った後は力尽きて動けないのである。
 そこまでしても通わせたかったのか、と言われると、そうだとしか言えない。仲良しのお友達を作って、行事などたくさん経験して欲しかった。
 けれど、娘には一向に友達ができなかった。意地悪されることもあるらしい。保育士さんはその理由を、遅刻欠席が多いからだと言った。いじめられて当たり前のように言われて、私はショックだった。だとしたら、何もかも私のせいなのだ。
 私は、もしかしたらこの先、子供たちの害にしかならないのではないだろうか。

 二週間おきの診察が、私のささやかな楽しみだった。
 少しずつ先生に慣れ、先生もまた、私という人間を把握したようだった。
 私には他に、本当の気持ちを話せる人はいない。こんなことを友達に話せば心配をかけるだけだ。健康な彼らには、理解されないかもしれない。だから先生に話を聞いてもらうと、うつが良くなるわけではなくても、少し安心する。
 うつ状態が続き、思考が停止してしまうと、うまく話すこともできない。だから私は、スケッチブックに自分の状況を書いていった。わかりやすいように、簡単なイラストも描いた。月光荘のピンクの表紙のスケッチブックだった。診察の時それを見た先生は笑顔を見せてくれた。
「これいいね! かわいいし、わかりやすい! また書いてきて欲しいな」
 その言葉が嬉しくて、毎回書いていった。私は忘れっぽいし話し下手だから、書く方が都合がよかった。うつの日も、そうじゃない日も、殴り書きの日も、丁寧に書けた日もあった。
 初めて会った時は、少し固い表情に思った先生だけれど、笑うととてもかわいい。まわりが明るくなるような笑顔である。私は、そんな先生に笑って貰えるようなことも書いていくようになった。薬を擬人化したり、替え歌を作ったり。まわらない頭で考えた、くだらない冗談ばかりだったけれど、先生はよく笑ってくれて、そのことに私は癒やされていた。
 この人がいれば頑張っていける、そんなふうに思った。
 私は自分を疑い深い人間だと思う。病院で行った性格検査でも、そんな感じの結果だった。でも結果を読みながら、先生は、
「え、意外……」
 と言っていた。そういえば先生には最初から警戒心を持たなかった。何故かはわからないけど、この人のことは信頼してもいいと最初から思っていた。

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