第一章

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 札幌近郊のこの街の病院で、私と彼女は出会った。
 新年度が始まったばかり、北国では雪が解けきって間もない頃である。
 ここに引っ越す前の私は過労からのうつ病と診断されていて、一年ほど投薬治療を受けていた。
 三年前に離婚してから、二人の子供を抱えてがむしゃらに働いていた。人間関係にも恵まれ仕事も楽しかったのだけど、先に体を壊し、それから間もなく精神を壊した。
 
 この街には、三件の精神科と、一件の心療内科があるらしい。どの病院がいいのか調べようにもネットにめぼしい情報はなく、転院先を決めかねているうちに薬が無くなってしまった。
 そのまま一ヶ月ほど経つと良くなりかけていたうつがぶりかえしてしまった。環境変化で調子が悪くなる人も多いそうだが、それもあったのだろう。
 新居ではトラブルが多かった。入居の手続きや、学校や保育園の手続き、ご近所のことや、水回りなど……。どれも弱った身には、かなりのストレスだった。そんな中ハローワークに通った。仕事をしないと生きてはいけない。保育園も求職中ということで入れて貰っている。
 酷く調子が悪いので、なるべく早く薬を再開したい。そこで、SNSの地域コミュニティで教えてもらった、市立病院の精神科にかかることにした。市立病院なら場所を知っている。国道沿いで、街の中心からそれほど離れていない。その他の病院は、家から少し遠かった。
 精神科の先生は三人いて、木曜日が若い女の先生ということだった。私は、女性同士のほうが話しやすいかと期待して、その日に受診することにした。
 その日の朝、小学生の息子を登校させ、娘は保育所へ預け、一人車で病院に向かった。市立病院に来たのは初めて。混んでいる駐車場に、やっと空きを見つけて車を止めた。
 本館の玄関を入ったところにある案内図には精神科が書かれていなかった。でも、診療科目には書いてあるので、確かに存在はするらしい。
 案内の人がいたので、声をかけた。
「精神科にかかりたいのですが、どうしたらいいですか?」
 その人は、すぐに新患窓口に案内してくれて、受付の人に伝えてくれた。申し込み用紙に名前や住所を書いて提出すると、診察券ができてきた。それから受付の人が、新館の六階にある精神科外来まで案内してくれた。館内案内図には載せていないのだという。やっぱりそれは、精神科だからなのだろうか。

 新館はその名の通り新しかった。淡いオレンジ色を基調にした、温かみを感じる内装である。天井も高く、窓が大きくて、明るく開放的だ。六階だが、もちろん鉄格子などはない。
 外来窓口に託された私は、言われた通りソファーに座って長い問診票を書いた。三ページくらいあった。全部書く必要はなかったのかもしれないが、一通り書いた問診票と、前の病院で貰っていた紹介状を窓口に渡した。
 また座っていると、診察室の入り口に白衣を着た小柄な女性が現れた。この人が今日の担当の先生なのだろう。名前を呼ばれた人が診察室に入っていくのを見ながら、随分かわいい先生だなと思った。まだ二十代のように見える。三十代前半かもしれない。肩より少し短い、ふわっとした髪型がよく似合っていた。
 先生が入り口に現れる度に、いつ自分が呼ばれるかと緊張した。ちょっと固い先生の表情が、真面目そうに見えた。さらにしばらく待っていたら、やっと名前を呼ばれた。

 先生について診察室に入る。シンプルで小さな部屋。大きな窓から光が差していた。机は壁際にあり、私たちは膝をつき合わせるようなかたちで椅子に座った。手を伸ばせば触れそうな近さで、先生は私に頭を下げて名乗った。
「これから佐藤さんの担当になる、小野寺です。よろしくお願いします」
 私も慌てて名乗り、頭を下げた。顔を上げると、先生と目が合った。やっぱり、この人、かわいい。木曜日を選んで良かった、と思った。
「今日はどうされましたか?」
 そう問いかけながら、問診票と紹介状を見て先生が言う。
「うつ病で病院にかかっていたんですけど、最近こっちに引っ越してきて、病院がわからなくて悩んでるうちに薬が無くなってしまいました。引っ越しのせいか、また調子が悪くなってきて辛いです……」
 ちゃんと自分の口で説明できるように、何度も頭の中で練習してきた。そうじゃないと何も言えなくなってしまいそうだから。
 先生は頷いた。
「それは辛かったでしょう。今日はひとまず前の病院と同じ薬を出しておきますね。様子を見たいので、また二週間後に来て下さい」
 穏やかな声でそう言ってくれたので私は安心した。時間が経てば、また良くなると思ったから。

 薬を飲むのが久しぶりのせいか、それから数日、副作用である動悸に悩まされた。それでもまた前みたいに効くだろうと少しだけ希望を持つ。
 うつはすぐには良くならない。動けなくてしばらく寝てばかりいた。子育てもままならないのに就職活動どころではない。生活していくお金のことを考えたら焦ってしまう。すぐに働くつもりで娘を保育所に入れたから、早く仕事をしなくては退所させられてしまうと思った。引っ越してきてからというもの、心配事ばかりだ。

 二週間後の診察で、先生は私に尋ねた。
「うつになる前はどうでしたか? それまでと違うことはありませんでしたか?」
 私は記憶を遡って、思い出すままに答えた。
「うつになる前は、とても元気でした。離婚した頃から、何だかとても気分がスッキリしていて。朝早く起きて、手のかかるお菓子やパンを焼いたりしてました。体力作りに外を走ったり、仕事を掛け持ちしたり、イラスト展をやってみたり、異業種交流会とか行ったり。恋愛もしたし、友達ともよく遊んでたし、子供たちと旅行したり、イベントやお祭りもなるべく参加するようにしていて、めちゃくちゃ充実していました。楽しかった。毎日忙しくてほとんど寝てなかったけど、平気でした。もちろん辛い出来事もありましたが、自分は大丈夫だと思えました。不思議と何でもできる気がしてて、環境にも恵まれていて、周囲から愛されてる実感があって……だから、どうしてあんなにうまくいっていたのにうつ病になんてなったのかわからないんです。早く良くなって、またあの頃みたいに元気になりたい」
 それを聞いて、先生は言った。
「そうですか……。もしかしたら、これは躁うつ病かもしれないですね」
 躁うつ病は、今は双極性障害と言う。気分の波が日常生活に支障を来す病気だ。それまで、そんなこと考えたこともなかった。普通のうつ病だとばかり思っていたから。
 でも、そうかもしれない。運動なんて大嫌いな私が毎日欠かさず走ったりして。あの頃は変にテンションが高かった。自分は何でもできるって信じられた。それは、私の今までの人生から見れば、異常だと言えないこともない。
 すとんと腑に落ちるようだった。きっと先生の言うことは当たってる。そう直感が告げていた。
 まだ病名が確定したわけではないが、その日から処方が少し変わった。

 そのタイミングで、遠距離恋愛だった恋人と別れた。
 先生の言う「躁状態だったかもしれない」頃に出会い、一緒に過ごしていた人だ。いろんなことを、一緒にやった。
 私は彼の才能が好きで、彼も私に一目置いていて、尊敬し合えるところがあって。子供好きな彼に、私の子供たちもよく懐いた。いずれは結婚するつもりだった。
 私は信じることが苦手だから、心を開くのには少し時間がかかった。そしてやっと通い合う気持ちになったのに、彼が夢を追って東京に行ってしまった。私は彼の夢を応援していたから辛くても笑顔で送り出したし、自分も頑張ろうという励みにもしていた。
 けれど、彼がいなくなってからたった数ヶ月でうつになってしまい、それからずっと治らない。自分で思っている以上に彼の存在を頼りにしていたのだろうか。
 私は、彼の前では無理をして、元気そうに振る舞った。でも、だめだった。一か月半の音信不通の後、やっとつながった電話で、「今は自分のことだけで精一杯で、病気になった君を支えていく自信がない」と言われてしまった。それを聞いて別れようと言ったのは私だけれど、実質的には振られたのと同じだ。
 子供たちに、「彼とお別れしたよ。もう会えない」と言うと、娘の見開いた目に涙が浮かび、声を上げて泣き出した。彼に対して、わがままでツンデレだった娘。娘のそんな悲しい表情は、今まで見たことがなかった。こんな思いをさせて、私は何をやっているんだろう。
 次の受診で、先生に、
「遠距離恋愛だった彼氏と別れました。病気の君を支えていく自信がないとかって」
 と言った。先生は心配してくれたけれど、その時にはもう心が麻痺してしまったのか、何も感じていなかった。
「大丈夫です。もっと前から、ずっと放置されていて、もうだめかもしれないって思っていたから」
 私はそう言った。強がりではなかった。
 連絡を待つ日々に疲れていたのかもしれない。

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