彼と出会ったのはクリスマスが終わったばかりの頃だった。
友達の彼氏の後輩で、誘われて四人でカラオケに行った時、たわいない話が盛り上がって仲良くなった。
彼の選ぶ言葉は優しくて、話しているとほっとした。共通の趣味は特に無いみたいだったけど、私の話を興味深そうに聞いてくれた。
友達とその彼氏はそんな私たちを満足そうに眺め、連絡先を交換したらいいと言った。仕組まれたんだなと思ったけれど、嫌ではなかった。
それからしばらく会うことはなくて、メッセージだけ交わしていた。
楽しくて、遅い時間まで盛り上がってしまうこともある。嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれる。嫌なことがあれば愚痴を聞いてくれる。一人暮らしの私にはたったそれだけのことが嬉しかった。
二月になり、お店のバレンタインデーコーナーが華やかに飾られているのを見て、彼にチョコレートをあげたいと思った。ただバレンタインデーの雰囲気に影響されてるだけなのはわかっているけれど、いつも話を聞いてくれるお礼に。
凍える寒い夜、私たちは橋のたもとで待ち合わせた。
地方都市とはいえ、田舎の夜に開いている店は無い。
その日は職場の先輩の結婚式で、挨拶に時間がかかって待ち合わせに少し遅れてしまった。
寒い中待っている彼の姿を見つけて、私は走った。そして辿り着くと、息を切らして言った。
「お待たせしました。ごめんなさい」
「いや、大丈夫だけど……飛び込んでくるかと思ってどきどきした」
彼はそんなことを言った。
「飛び込んだほうが良かった?」
私は意地悪に笑った。彼は、
「うん、ちゃんと俺が支えるから」
なんて言う。
背が高く、体格がいい彼なら飛び込んでも受け止めてくれるだろう。そんなことを思ってしまうくらいには心が高鳴った。
チョコレートを渡すと、彼は、
「これは期待していいの?」
と言った。
「いつも話を聞いてくれるから、お礼のつもりです」
「そっか……、俺はてっきり……」
「まだ一度しか会ったことないし、深い意味はなかったんです。ごめんなさい」
期待させてしまったのか、悪いことをしたなと少し気まずい思いをしていると、
「あの、俺とつき合ってくれませんか」
と彼が言った。
「いつの間にか君のことばかり考えてしまうようになったんだ。お願いします」
私はその気持ちを受け入れた。まだ特別な気持ちはなかったけれど、彼なら悪くないと思った。会っていてもメッセージで話しているのと同じで、彼は優しい口調を崩すことがない。私は安心していた。
彼はまだ若いのに会社で重要なポストに就いているらしい。だから頼りがいがあるというわけではないだろうけれど、堂々と振る舞っている様子は格好が良かった。
それから私たちは順調にお付き合いをしていた。
彼と過ごすのは楽しかった。話していると癒やされた。
キャバクラの常連だったようだけど、私が何もいわなくても夜遊びをやめてくれた。
「これから俺は結菜だけのものだよ」
そんなありふれた台詞に、私は安心した。
だんだん彼のことを好きになっていくのが自分でもわかる。彼が「一緒に暮らしたい」「結菜との子供が欲しい」というのがくすぐったかった。
ある時、一緒に郊外のショッピングモールを歩いていたら、新しくカフェが開店していた。
この街は町の中より郊外のほうが栄えている。
店の前にある看板には大きなパンケーキの写真が貼ってあった。最近あまり見ない薄焼きのパンケーキで、ミルフィーユのように何枚も重なっていてすごく美味しそう。
私が立ち止まって看板を見ていると、
「食べたいの?」
と陸が聞く。
「うん」
「じゃあ、並ぼうか」
「いいの? ありがとう!」
私と陸は店の前の列に並んだ。
時間帯のせいだろうか、そう待つこともなく座ることができた。
メニュー表を見ると、薄焼きのパンケーキの上にフルーツがたくさん乗っているものが美味しそうだった。陸はバナナとバニラアイスにチョコレートソースのかかったものを注文した。
説明によると、ここのパンケーキは生地に全粒粉を使っている。カロリーは高そうだけど意外と健康志向なのかもしれない。
おしゃべりをして待っていると、そのうちにパンケーキが運ばれてきた。写真よりフルーツも多く、迫力がある。
「美味しそう!」
そう言うと、陸も嬉しそうだった。
フルーツにベリーソースがかかったパンケーキは、バターのコクと、甘さと酸味が合わさって美味しかった。
お店に入った時はこんなにたくさん大丈夫かなと思ったけれど、最後まで美味しく食べることができた。セットで注文した紅茶も香りが良くて、本当にいいお店。
そう思っていると、陸も、
「いいお店を見つけたね。また来たいね」
と言う。
お会計の時は私が払った。後で自分の食べた分は渡してくれると思っていたけれど、陸は、
「財布忘れたから、貸しておいて」
と言う。
私は、自分が食べたくてつき合ってもらったんだからとご馳走することにした。
陸は、年収や、祖父から相続した土地の話を聞かせてくれた。彼の年収は同年代の平均年収より少しだけ高い。彼の財産を狙っているわけではないが、お金に困っている人ではないんだということは安心材料のひとつだった。
彼はよく財布を忘れたり、現金を持ち合わせていなかったりした。
「俺はあまりお金にこだわらない性格なのかも。すぐ忘れちゃうんだ」
と笑っていた。お金のある人ってそうなのかな、と私は思った。
私はその度立て替えたりご馳走したりしたが、彼はお礼を言うだけで返してくれることはなかった。でも、小さなことを言うのは貧乏だと思われそうで指摘できなかった。
もしかしたら彼の言うことは嘘かもしれない。
そう強く思ったのは、彼を私の実家に連れて行った時だ。
彼は私との待ち合わせ場所に手土産の一つも持たず、手ぶらで現れた。それだけでも驚くのに、現金をほとんど持たずに来ていて、途中の食事なども全部私が支払った。実家への手土産も私が買った。
いくらものを知らなくても、さすがに常識からは考えられないと思う。
彼も一緒に実家に泊まるのに、これってどうなの? 私は軽んじられてる? しかも、この帰省は私の親に同棲を許して貰うためのものだ。
この時、もしかして陸はお金が無いのでは? と思った。
いろんなことが嘘なのでは?
彼は仕事で疲れているからと助手席で寝ている。車の免許があると言いながら、こうして長距離の運転でも絶対に運転を代わってくれることはなかった。本当に免許を持っているのだろうか?
人を疑うのは嫌だけど、最近何だか変だと思うことが多い。
親も何か感じたようで、
「おまえがいいならいいけどね……」
と不安そうにしていた。
それでも、せっかく親の許しも得たのだからと一緒に不動産屋を回った。
彼は、友達を呼べるように新しくて広くてきれいな物件がいいと言う。素敵なところに住みたい気持ちはわかるけど、あまり高い家賃は無理だと言うと、
「二人で払うんだから大丈夫でしょ」
と笑う。
「私の収入じゃこんな立派なところ無理だよ、半分なんて払えない」
「足りないぶんは俺が払うよ」
陸はいつものように笑う。一見頼りがいがあるように思えるけど、本当だろうか。今まで立て替えたお金も払わない人が、本当に?
私が、
「見栄で選ぶより身の丈に合った物件にしよう」
と言うと不満そうだったけれど、不安で仕方がなかった。
陸は束縛が強いほうで、仕事中にも何度もメッセージを送って来る。返事をしないと電話をかけてきた。仕事中はメッセージも電話も対応できないと言っているのに、やめてくれない。『今何してるの?』『どうして返事してくれないの?』『僕のこともう嫌いなの?』
と、喧嘩しているわけでもないのに毎日送ってくる。
「だって結菜が何をしてるか気になるんだよ。本当は浮気してるんじゃないの?」
そんな風に言われて私が怒ると、
「ごめんごめん、冗談だよ」
と笑っていたけれど、同じことを何度も繰り返す。
最初は「心配するほど好かれているんだな、重いけれどしかたないのかな」って思っていたけれど、次第にうんざりするようになっていった。
それでも条件のいい物件を見つけて、契約する日。
私は仕事だったので、彼がひとりで不動産屋に行くと言っていた。
この日まで、これでいいのかとずっと悩んでいた。
職場で仲の良い同僚に話すと、
「それっていつもしつこく電話かけてきてる人? その人ちょっと怪しいから、もっと様子をみたほうがいいし、お金の話もはっきりしたほうがいい。でも私ははっきり言って別れたほうがいいと思う。嘘つきは直らないよ。疑心暗鬼で暮らして行くのは辛いだけでしょ」
と言う。
私も彼の言動を疑うのに疲れていたし、このままでいいと思えなかった。
彼は早く入籍したいようだけれど、私は彼と結婚する気にはなれなかった。同棲してしまえば別れるのも大変になる。実家は遠くて頼れないし、すぐに助けを求められるところはない。このまま一緒にいても未来が見えない。
私は契約する前にはっきり別れなきゃと思い、その場で彼に、
『別れよう』
とメッセージを送った。
彼は、
『そんなこと言っても、今不動産屋にいて、契約したところなんだけど』
と言う。
まだ十時前なのに、本当に今不動産屋にいるのだろうか。何も信用できない。
彼は言った。
『もう一度会って話し合おう』
嫌だったけれど、会わずに済ますのも悪いかと思って、仕事帰りに職場の近くの公園で話した。
こんなところでと思ったけれど、そういえば、どこか食事に行って話すなんて私たちにはほとんど無かった。最後に一緒に外食をしたのはパンケーキの時。
私は、もう何も信じられない気持ちだった。会社で重要なポストについているというのも、年収も、確かめたわけではない。
「陸の収入って本当に言っていた通りなの? 生活ぶりを見ていると、とてもそうは思えないんだけど。お金も払わないし、返してもくれないし。これからどうやって一緒に暮らしていくつもりだったの?」
と聞いた。
こんな話はもっと前にするべきだったのに、私にも「きっとなんとかなる」という甘えがあったんだと思う。直視したくなかったのももちろんある。
少し沈黙が流れて、彼は言った。
「借金があるんだ」
「借金? 何の?」
「結菜に出会う前、夜の店に通って女の子に貢いだから、消費者金融をいくつか……」
馬鹿じゃないの。夜のお店に通ってたのは構わないけど、それで抱えた借金を背負ったまま結婚したいなんて。早く子供が欲しいとも言っていたけど、どうするつもりだったんだろう。
「お祖父さんの遺産は?」
「それは……土地が売れないとお金にならないし、伯父が何も言ってこないから……」
「本当にそんな遺産があるの? その土地に価値があるのかわからないけど、価値がないから売れないんじゃないの? 伯父さんは信頼できる人なの?」
彼は黙ってしまう。私はもう一度聞く。
「どうやって暮らすつもりでいたの?」
「生活費は結菜に出してもらおうと思ってた。結菜は元々ひとり暮らしだし、ひとりもふたりも変わらないでしょ?」
変わらないわけあるか。ふざけるなと思った。
「家賃は?」
「それは半分で」
「そんなの無理に決まってるじゃない」
私の給料がそれほど多くないのは彼も知っている。
「節約すれば大丈夫だよ」
「どうして私が節約しなきゃいけないの?」
「結菜はもう俺を好きじゃないの?」
「好きだったけど、今は好きじゃない。だって、嘘ばかりだもの」
「……そっか」
「さよなら」
私はうなだれる陸に背を向けて立ち去った。陸は追いかけて来なかったし、これで私たちの間は終わりだと思っていた。新居は彼が住むなり、解約したらいい。
それから数日して、SNSから彼のフォローを外そうと開いた時に、
『あと二十九日』
というつぶやきが目に入った。
何だろうこれ? と少し遡ると、
『一ヶ月後、俺の気持ちを裏切った彼女を殺す』
と書かれていた。
「何これ……」
背筋が寒くなった。
それから毎日、
『あと二十八日』
『あと二十七日』
とカウントダウンされていく。
怖いけど、どうしたらいいかわからない。
友達に話すと、
「その日には実家にでも避難して!」
と言う。
避難したかったけれど、その時期は仕事が忙しかった。
「何日も仕事休めないよ」
と言うと、
「命がかかってるんだよ!?」
と怒られた。
予告の日は休みだけれど、実家は日帰りで行ける距離ではない。
話せば職場の人はわかってくれるだろうけど、心配かけたくないし、どうしても仕事を休みたくなかった。
『あと十五日』
『あと十四日』
二週間くらい前になると恐怖で食事もあまりできなくて、体重も減ってきた。
このままでは仕事に差し支えると思って頑張って食べ物を口に入れるけれど、吐いてしまうことも多い。
『あと七日』
よく毎日忘れないでカウントできるものだ。
『あと六日』
私殺されるほど悪いことしたかなぁ?
『あと五日』
私は本当に殺されてしまうのかな。
『あと四日』
『あと三日』
『あと二日』
……。
予告の日、誰が来ても玄関に出ないと決めていた。
万が一鍵を開けようとされた時に備えて、ドアのあらゆるところにガムテープを貼った。
そして椅子などの家具を置いてすぐには入って来られないようにした。
日中は何事もなくて、ただの脅しだったのかもしれないと思った。
二十二時頃、チャイムが鳴った。
最小限の明かりしか使っていないから、私が家にいるかどうかはわからないはず、そう思っても怖かった。
チャイムは何回も鳴って、ああ、彼が来ているんだなと思った。他の人がこんなに鳴らすとは考えられない。
そのうち、玄関の外からカリカリいう音が聞こえた。ドアに何かしているらしい。
私は息を殺して玄関の方を見つめていた。
そのうち音が止んだ。
すごく長い時間に感じたけど、実際はどうだったんだろう。
やがて諦めたのか、階段を下りていく音が聞こえた。
ほっとした。そして涙が出た。
私が何をしたっていうのだろう。
翌朝、出勤前に私はガムテープを剥がして玄関の外に出た。
ドアを見ると鍵穴のあたりに細かいひっかき傷がついていた。
彼は何をしようとしていたのだろう。開けるつもりだったのだろうか。
開けて何をするつもりだったのだろう。
ただ不気味で怖かった。
その日の彼のつぶやきは、
『彼女を殺すのはやめた。代わりに俺が死ぬことにする』
だった。
別れたとはいえつき合っていた人のことだから心配したけれど、
「そういう人は絶対死なないよ」
と同僚は言った。
「どんなに心配になっても、絶対関わるんじゃない。彼のためにもならないよ」
そう言われて、私は彼に連絡しなかった。SNSを見るのもやめた。
彼のためにならないという同僚の言葉は当たっていると思ったし、情につけ込まれてずるずる続いてしまうのも嫌だった。
それから五年が経つ。
久しぶりに訪れた橋のたもとで彼とすれ違った。あの寒いバレンタインデーの夜に彼と待ち合わせた橋だ。
あれから私は引っ越したので一度も見かけることはなかったけれど、特徴のある顔だったから忘れっぽい私でも思い出せた。体格の良かった彼は、以前より少しお腹が出て髪が薄くなったような気がする。
若い女の人と歩いていた。今の彼女だろうか。
生きていてくれてよかった。彼はもう死んでしまったのだろうか、それとも生きていてまだ私を憎んでいるのだろうかと、ずっと不安だった。
でもきっとこの二人は続かないだろう。彼は嘘つきだから。
彼は嘘ばかり重ねて積み上げた、薄焼きのパンケーキだった。
今度は彼女がそれを食べるのかな? 彼女がいつまでも騙されていてくれたらいいね。
幸せになってね。
さよならパンケーキ。
-終-
2023.4.1