友花①

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 ため息なのか、うめき声なのか。
 かすかな声で目が覚めた。
 私は体を起こし、英の顔を覗き込んだ。
 涙が枕を濡らしている。
 また、いつものやつだ。
 こうなってしまったら、私にはなすすべもない。
「友花……、起こしちゃった?」
 寝起きのかすれた声で、英が言う。
「私のことは、気にしないんだよ?」
 私が言うと、英はうっすら微笑んだ。
「ずっと昔にも、そう言ったね」
 彼女はそれだけを言うと、疲れたように目を閉じる。
 私は黙って、彼女の髪をそっと撫でた。
 そうしていないと、まるで英がどこかに消えてしまいそうで。

 私は小野寺友花、精神科医である。
 となりにいるのは、佐藤英。今風にいうなら、私のパートナーだ。
 英は私の元患者。
 今は違う病院で診てもらっているけれど、双極性障害である。
 発症したのがいつだったのか、正確にはわからないけれど、私が診断してからもう十八年になる。
 私が勤めていた病院を転勤してからのことはわからないけれど、再会した時にはもう相当こじれていた。
 これでも今はだいぶ良くなったと思う。

 朝が来て、英がまだ眠っているのを確認すると、私は部屋のドアを開けた。
 さっきからケージで吠えているのは、ペットのレン。
 オスのチワワだ。
「はいはい、今ごはんあげるからね。英まだ寝てるから静かにしてね」
 いつもは英がレンのお世話をしている。
 小型犬が大好きな私に合わせてくれているけれど、英は本当は室内犬は苦手そうだった。
 だけど、忙しい私の代わりに、一生懸命お世話をしてくれている。
 ごはんをあげて、散歩に行って、毎日床のお湯拭きまでしてくれている。
 レンが床を舐めてもいいように、洗剤や消臭液などはなるべく使いたくないそうだ。
 レンがごはんを食べている間、私はぼんやり考えていた。
 英にとって、生きやすい環境を、と思いながら、私のわがままにつきあわせちゃってるんじゃないか、とか。
 私がレンの散歩から帰ってくると、英が起きてきた。
 顔色が悪い。
「ごめん……散歩」
「いいの、気にしない!」
 私はわざと明るく言って、英を椅子に座らせた。
 散歩といっても小型犬である。そんなに長い時間歩くわけではない。
 サボっちゃってもいいくらいだが、寝ている英のために少し静かにしておきたかった。
 英の向かいに座って聞く。
「食欲は?」
「ないです」
「睡眠は?」
「途切れ途切れ……」
 診察みたいな質問をすると、私は、
「少しだけでも食べる?」
と、カロリーメイトを差し出した。
 私は料理が苦手なのである。
「ありがとう」
 英はそう言うと、私の手から、カロリーメイトを受け取った。
 もちろん、これだけではもそもそするので、冷蔵庫から牛乳を出す。
「あっためる?」
「ううん、冷たいのがいい」
 英のカップに牛乳を入れて渡す。
 牛乳は飲んだが、カロリーメイトはずっとテーブルに置いたままだった。
 私は無理強いすることはせず、英の頭をぽんぽんと叩くと、カップを洗いに台所に立った。

 私はたくさんの患者を診てきたが、こんなに近くで見るのは初めてだった。
 外来の患者さんも、入院している患者さんも、短い時間しか診ることがない。
 生活を全部見せてくれたのは、英だけである。
 この経験は、私にとって、勉強にもなった。
 英の病気はなかなか良くならない。
 以前の主治医だった私が未熟で、それで取り返しがつかないことになってしまったんじゃないかと思うこともある。
 理由なんて誰にもわからないし、どうして病気になるかの仕組みすらわからないのに、私も自分のことになると不安になる。
 英はあの頃のことを、頭が壊れていたという。
 確かに短い間隔で躁とうつが現れ、時には混ざり、混合状態に陥っていた。
 自殺企図をしたこともある。
 病院の方針で入院させてあげられなかったが、本当に心配した。
 まだ、こんな気持ちになるとは思ってもみない頃だったけど、あの頃から英は特別な存在だった。

「英、ちゃんと寝てなさいね。無理はだめよ」
 私は言うと、彼女は黙ってうなずいた。
 こんな彼女を残していくのは心配だけれど、仕事に行かなくてはならない。
 うつ状態の時に無理をすると、さらに悪くなるか、ひどいときは躁転してしまう。
 それは彼女の病気には良くないことだった。
 波はないほうがいい。
 それは確かなこと。
 だけど時々、彼女は無理をする。
 夕食の食材を買いに行って過呼吸を起こしたり、する。
 うつで動けない時、気力もない時は、一ミリだって動けない、と患者さんは言う。だけど、英はそれをおしてでも頑張ろうとする。私のために。
「目が覚めた瞬間、死にたい自分に気がついてしまう」
 彼女がそう話してくれたのはいつだっただろう。
 英の希死念慮は強く、私と一緒にいるようになっても、何度か自殺を図った。
 もちろん、あてつけでもなんでもない。
 彼女は理由もなく、ふっと死にたくなって、それを実行しようとしてしまう。
 だから私はいつも心配だった。
 いつか英は、私の元からいなくなってしまうかもしれない。

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