「あのね、もう来年からは、こんなふうに結婚記念日のお祝い、しなくていいよ」
大切な結婚記念日。素敵なレストラン、高価なプレゼント、大きな花束に赤いワイン。愛妻家の夫は、美味しい料理にも、妻といられる時間にも大満足。しかし、一緒に喜んでくれてるはずの妻の表情が陰る。気遣う夫に、妻は言った……。
その言葉に込められた妻の気持ち、そして夫が用意していた、このピンチを救う、もう一つのプレゼント。
想い合っててもすれ違う夫婦の愛の難しさ。
今日は結婚記念日。
まだ子供がいない僕は、会社帰りに妻と待ち合わせて、予約していたレストランに行く。
誰に聞いても評判の良い老舗のレストラン。きっと喜んでくれるだろう。
学生時代とは違って、今ならしてあげられることがたくさんある。
時間が作れたら、今度はゆっくり温泉に行くのもいいかもしれない。
隣を歩く妻は、行き先がレストランだとわかっているからだろう、お気に入りのワンピースを着ていた。よく似合ってる。僕もこの服が好きだ。
夜の街では少し控えめにも思える紺のワンピースが、動く度にふわっと揺れる。
毎年贈っているからもうサプライズになっていないが、レストランに預けておいた花束を渡す。もちろん、荷物になってしまうから、抱えて帰るのは僕だ。
パールだろうか、ダイヤだろうかと、何日も悩んで選んだネックレスを贈ったら、妻はそれを嬉しそうに受け取った。
今年も楽しく記念日を祝った。
プレゼントも喜んで貰えたし、料理も美味しかったし。
僕は満足して、妻の方を見た。
その時、妻の表情が元気なく見えた。
「どうした? 疲れたのか?」
妻はそれには答えず、俯いた。
「あのね、もう、来年からは、こんなふうに結婚記念日のお祝い、しなくていいよ」
急に妻がそう言い出して、僕は動揺した。
何で? 僕は何か気に障るようなことをしてしまったのか。
「どうして、急にそんなこと言うんだ?」
そんな、お別れみたいな言葉。
僕はこれからも結婚記念日を一緒に祝いたい。
でも、妻はそうじゃないのか?
「私、本当はね、こんな食器が沢山載るような大きなテーブルじゃなくていいの……、もっと、手を伸ばせば届くような距離で、一緒にいたかった」
「こういう店は嫌なのか? 何で今まで言ってくれなかったんだ?」
「あなたが、嬉しそうだったから」
そうだ、僕は自分が妻に何でもしてあげられる気がして、嬉しかった。
豪華なレストラン、高価なアクセサリー。
何を贈っても妻は喜ぶから、それでいいんだと思っていた。
テレビで紹介していた店も、雑誌で特集していた店も、妻がきっと喜ぶだろうと思って僕は。
「あなたが私のためを思ってくれているのはわかってる。それは嬉しいことだから、黙っていたの。でも、それも最近、なんだか、辛くなっちゃって……」
「…………」
「ごめんなさい」
僕らは、気まずいまま帰宅した。
タクシーの中で、二人とも無言だった。
僕は、自分は何が悪かったのだろう、何を間違ったんだろうと考え続けた。
いつの頃からだったのか、毎日のように僕は、忙しいとか疲れたとか愚痴を言っていて、もうずいぶん長く妻に触れていなかった。
もしかして、距離を感じているんだろうか。
寂しいと思っているんだろうか。
きっと、疲れてる僕に遠慮してくれていたのだろう。
本当に、とても優しい妻なのだ。
そんな妻に、今年はもう一つ贈りたいプレゼントがある。
喜んでくれるかどうかはわからない。
また、自己満足になってしまうかもしれない。
でもこれは、今夜どうしても渡さなくてはいけないような気がした。
家に入ると妻は、大きなダイニングテーブルを見つめて、ため息をついた。
「学生時代は、一人暮らし用の小さなテーブルで、二人でくっつきながら、おうどん食べたよね。あなたはもう忘れちゃったかもしれないけど、私には、今でも大切な思い出なの」
「忘れてないさ。ほら」
僕は、椅子に置いたバッグの口を開け、中からガサゴソとあるものを取り出した。
今日、お昼ごはんを食べる時間も惜しんで、休み時間に買いに行ってきた。
これが、今年のもう一つのプレゼント。
「それ……あの頃よく食べてた!」
「そう、赤いきつね。いつも買い置きしててさ。一緒に食べよう。たまには夜食もいいだろ?」
口元に両手を当て、目を輝かせた嬉しそうな顔。
みるみる涙が浮かぶのが見えた。
妻は恥ずかしそうに手の甲で目を擦ると、
「……お湯、沸かしてくるね!」
そう言って、キッチンに逃げてしまった。
僕は、泣かせてしまったことに慌てて、後ろ姿を追いかけていく。
それに気づいているんだろうけど、妻は振り向かない。
水を入れたケトルにカチカチとガスの火が点いた時、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう、覚えていてくれて」
じわりと、学生時代の頃のような、甘酸っぱい感覚が蘇った。
思わず妻を抱きしめる。
とまどっていた妻も、やがて僕の腕の中に身を委ねた。
静かだったキッチンに、シュンシュンと、お湯の沸く音がする。
妻は、急に弾かれたように、
「あ、お湯」
と、慌てて身を捩った。
僕は、手を伸ばしてガスを止め、妻の髪に顔を埋める。
「お湯ならまた沸かせばいい。何度でも」
今はこの温もりを逃したくない、僕はそう思った。
※2021年頃、カクヨムの赤いきつね緑のたぬきイベント(たぶん)