・心の鎖

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 彼氏が何を考えているのかわからない。自分が本当に愛されているかわからない。よく聞く悩みだけど、それは話し合いが足りないからだと思っていた。

 でも話し合い以前の問題ってあるんだなと、私は二十五歳にしてようやく知ることになった。

 

 夏の終わり。

 彼と出会った日はもっと早い時間で、太陽も高いところにあった。

 頭がじりじりと焼けそうな暑さで、気分が悪くなった私はとうとう道の端に蹲ってしまった。

 誰も見て見ぬふりで通り過ぎる。

 どうしよう、体がふらつくし、吐き気がする。熱中症かもしれない。どこか日陰で休みたいけど……。
 そう思っていたら、頭の上から男性の声がした。

「大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」

 見上げると逆光でよくわからなかったけど、三十代後半くらいの男性だった。

「救急車はいいです、日陰に行きたくて」

「じゃあ、あの木陰のベンチまで行きましょう。立てますか? 嫌でなければ僕につかまって下さい」

 そう言って腕を伸ばしてくれた。

 私は彼につかまって、どうにか立ち上がった。そして木陰のベンチに辿り着いた。

 日陰に入ると急に温度が下がったように感じる。

「ありがとうございます」

「いえいえ。困った時にはお互い様です。水とか飲み物はありますか? 買って来ましょうか? ああ、でも最近は変なものを混入する事件とかあるから、心配かな」

「あ、バッグの中の水筒にお水あります。ありがとうございます」

「それなら安心だ」

 彼は頷いた。

「熱中症かもしれないから、水分とって下さいね」

「はい」

 私は氷の入った冷たい水を喉に流し込んだ。熱のこもった体を中から冷ましてくれる感じがする。

「ひとりで放っておくわけにもいかないし、落ち着くまで一緒にいますよ。歩けるようになったらタクシー乗り場まで送ります」

「そんな、ご迷惑では」

「用事が終わって帰って来たところだし、時間はあるので、大丈夫ですよ」

「えっと、お名前を教えて下さい」

「名乗るほどの者ではないですよ……、って颯爽と姿を消すのが格好いいと思うんですが、それも怪しくて不安でしょうね。北原と言います。あ、あなたは名乗らなくていいですよ」

「北原さん、後日お礼をしたいので、連絡先を教えて下さい」

「あはは、気を使わないで下さい、僕はベンチまで連れて来ただけで、何もしていないんだから」

「お願いします」

 何度か押し問答になったけれど、

「本当にお礼なんかはいらないけど、君はそれでは気がすまないみたいだね」

 と笑って、名刺を一枚渡してくれた。

「北原柊……」

「寒そうな名前でしょう?」

「そんなことないですよ、いい名前」

 昔ながらの厚手の白い名刺用紙に、シンプルな黒い文字が印刷されている。社名や肩書きなどはない。

「翻訳の仕事をしてるんです。だから名前と連絡先しか書いてないんです。やっぱり社名とか入っているほうが安心しますよね、ごめんなさい」

「いいえ、そんなことは関係ないです。北原さんは信用してもいい人のような気がする」

 なんとなくそう言ってしまった。

「ありがとう。でも僕も悪いやつかもしれませんよ? 優しいからって油断しちゃだめです。気をつけて下さいね。……笑顔が出てきたし、もうそろそろ帰れそうかな?」

 それから北原さんにタクシー乗り場まで送ってもらい、家に帰ることができた。

 エアコンで部屋の熱気を冷やしている間に、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲む。

 それから名刺に書いていたメールアドレスにお礼を書いて送る。

『今日は助けていただいてありがとうございました。先程無事に家に着きました。後日またご連絡致しますので、お礼をさせて下さい。よろしくお願いします』

 返事はあっさりしたもので、

『お知らせありがとうございました。お大事に』

 だけだった。

 迷惑だったかな。でも、嫌なら連絡先を教えてくれないよね。だったら、お礼だけでもさせてもらおう。何がいいかな……。

 

 それから数日してすっかり元気になった私は、北原さんにメールをした。

『先日はありがとうございました。お礼をしたいので、近々会えませんか?』

 そう送ると、少し経って返事が届いた。

『体調のほうはいかがですか。本当にお礼なんかいいんですよ、元気であってくれれば助けた身として充分満足です』

 でも、どうしても会ってお礼が言いたいと書くと、わかりましたと返事が来た。

 メールでのやりとりがもどかしくなり、途中でメッセージアプリに切り替えた。北原さんはあまり使ったことがないそうだ。それでもすぐ操作に慣れたようだ。

『じゃあ、お礼に食事をごちそうさせて下さい!……あ、でも奥様に怒られちゃいますよね』

 自分がひとり身だから忘れていたけど、北原さんはずっと歳上に見えるから、家庭があってもおかしくない。

 でも、北原さんは言った。

『僕は独身ですよ』

『それじゃあランチとかでも大丈夫ですか?』

『はい』

『はりきって良さそうなお店探しておきます!』

 私は言うと、日時と待ち合わせ場所を指定して電話を切った。

 楽しみだな、北原さんにまた会えるんだ。

 

 選んだのは職場の人たちに評判のいいレストラン。値段も無理のない価格だ。

 待ち合わせに来た北原さんは、少し困ったような顔で、

「本当にご馳走になっていいんですか? 本来なら僕がご馳走するべきなのに」

 と言った。

「それじゃあお礼になりませんよ、さあ行きましょう」

 レストランで私たちは、自己紹介を少しした。

 北原さんは数年前に両親を事故で亡くしてから一人暮らしをしている。一つ違いの兄がいて、遠方で家庭を持っているそうだ。仕事はほぼ家の中でするし、あまり人と接する機会はないらしい。四十五歳。

 私も自分の話をした。北原さんが、

「女の子なんだからあまり個人情報は明かさないほうがいい」

 と言ってくれたから、少しだけ。

 子供の頃に母が亡くなって父子家庭という話とか。ひとりっ子だから兄弟に憧れるとか。

 北原さんはあまり口を挟まず黙って聞いてくれるから、つい何でも話してしまいそうになるけど、そのうちに話題はよくある世間話に変わった。話を変えてくれたのかもしれない。

 

 お会計の時、北原さんが、

「やっぱり僕が払います」

 と言い出した。

「だめですよ! お礼なんですから」

「若い女の子にご馳走してもらうなんて、恥ずかしくて。お願いだから払わせて」

「お願い、ですか?」

「わがまま言ってごめんなさい」

「わかりました……。じゃあお礼は別のかたちでさせて下さいね」

「うん」

 私は、どうお礼をしたらいいのか考えてしまった。お菓子とか、小物とかがいいのかな……?

 お店を出て、駅まで少し歩く。途中の公園を通っていくと少しだけ遠回りになる。もっと一緒にいたいなぁ。自然とそんな気持ちになってしまった。

「あの、少しだけお茶しませんか」

「お茶?」

「近くにコーヒーの美味しいお店があるんです」

「いいですね。僕、コーヒー好きなんですよ」

 公園の出口にあるカフェ、というより昔ながらの喫茶店に北原さんを案内した。

「君のような若い子がこういうお店を知っているなんて意外だね」

「ふふ、とっておきのお店なんですよ。誰にも教えたことがないんです」

「それは楽しみだな」

「今度こそご馳走させて下さいね、喫茶店くらいならいいでしょう?」

「はは、わかりました。ありがとう」

 店内は空いていた。

 二人ともコーヒーを注文して、香りを楽しみながらとりとめなく話す。

「素敵なお店ですね、さりげなくアンティークの家具とか置いてあってセンスがいい」

「でしょう? ここで本を読むのが好きなんです」

「いいですね、僕も本は好きですよ」

 好きだな、この人。一緒にいると安心する。そう思って北原さんの顔を見る。

「どうしたの?」 

「私たち、まるでデートしてるみたいですね」

 私が言うと、北原さんが、

「そうですね」

 と笑った。

「もっとたくさんデートしてくれませんか?」

「え?」

「北原さんのことが知りたいです」

「うーん……。助けられたから、それで僕のことがいい人に見えてるだけですよ。第一君はいくつですか?」

「二十五歳です」

「二十も違うじゃないですか。無理です。諦めて下さい。生まれた子供が大人になるだけの年の差ですよ。きっと君のお父さんのほうが年が近い」

「友達からでもだめですか」

「だめです」

「どうしてもですか」

「どうしてもです」

「お願いします」

「恩人を困らせないで下さい」

「そんな言い方ずるい」

「泣くのもやめて下さい」

「泣いてません」

「知ってます」

「意地悪」

 北原さんはそこで溜め息をついた。

「……じゃあ、君の名前を教えて下さい」

「え?」

「恋人の名前を知らないっていうのはおかしいでしょうから」

「藤原陽葵です。いいんですか?」

「いいも何も、君がどうしてもって言ったんでしょう」

「ありがとうございます!」

「僕は優しい人間じゃないよ。本当にいいんですか」

「はい」

 

 柊の「優しい人間じゃない」という言葉は、わりと正しかったかもしれない。つきあい始めて急に冷たくなったというわけではないけれど、あまり構ってくれないのだ。いつも「忙しい」と言うばかりでなかなか会えないし、電話もメッセージもとても短い。素っ気ない。それもほとんど私から連絡しているだけで、柊から来ることはなかった。

 久しぶりに会えてもあまり私の話を聞いていない。自分の話もしない。

 なんだかわざと私が嫌がるようなことをしているような気がする。

 私に興味がないみたい。いてもいなくてもどっちでもいいような存在なのかも。大事にされているなんて思えないし、嫌がられているのかな。私から「やっぱり別れたい」って言わせたいのかもしれない。

 

 彼は時々一人で考え込んでいる。どうしたのかと聞くと目を逸らしてなんでもないよと言う。何か苦しんでいるようにも思うけれど、彼は私に何も言ってくれない。

 彼の心の鎖が私には解けない、それがとても歯がゆくて悔しくて寂しい。

 心の中で苦しい思いが渦巻いている。

 でも好きという気持ちは消えそうにない。

 

 冬が来ようとしている。

 秋はさびしくて苦しくて爆発してしまった。

 

 クリスマスもお正月も忙しいから会えないと言われて、私は本当にがっかりした。別に豪華なことがしたいわけじゃない、ただ一緒にいたいだけなのに、彼はいつも忙しいばっかりで自分からは少しも会おうとしてくれない。

 柊は私を好きじゃない、一目惚れをしたのは私で、無理に恋人にしてもらったけど、柊は私に恋をしなかったんだろう。

 柊は私がいらないんだ。

 だったら私は別れるの?

 

「柊は私なんか必要じゃないんでしょ?」

 そう喚くと、柊の顔がこわばった。私は一瞬で後悔した。言っちゃいけないことを言ったのだと思った。

「陽葵が別れたいなら僕は止めない、陽葵にも年の近い子たちと若い時代を過ごして欲しい。僕は、陽葵の人生を縛っているような気がする。冷たくしたら陽葵はすぐに僕のことが嫌になって離れていくと思っていた。僕は陽葵を特別な存在にするのが怖かった。一度は陽葵の気持ちを受け入れておきながら、無責任だよね。ごめんね」

 やだ、何これ、私、振られちゃったの? 別れるかもしれない、と予感はしていたけど、でも実際そうなるとやっぱり信じられない。

「さよなら」

 柊が言った。

 ああ、もうこれで終わりだ。何もかも。

 俯いてた顔を上げると、柊の目が潤んでいるように見えた。柊は子供みたいに袖で目を擦りながら、

「なんでもない、もう行って。俺をひとりにして」

 と言う。

 私はその言葉を無視して、柊に近づいた。

「やめて、陽葵のこと嫌いになるから」

「どうせ別れるなら嫌われたっていいよ」

 私は柊を抱きしめてソファーに座らせた。抵抗されるかと思ったけど、意外と素直に従ってくれた。柊はただ、されるがままに私の膝に頭を乗せ、観念したように目を閉じた。

 柊の頭の重みを感じる。足が痺れてもこの時間が最後なのだと思うとなんでもなかった。

 私は何も言わなかったし、柊も何も言わなかった。

 だんだん外が薄暗くなってくる。レースのカーテン越しに街灯がともり始めているのが見えた。静かな時間に柊の鼓動と呼吸だけを感じる。

 つき合いだしてからずっとこんなふうにくっついていたことってなかったな。

 いつも彼は素っ気なくて、恋人らしいことは何も無かった。

 あんまり静かで、眠ってしまったのかな、と思ったら、柊がぽつりとつぶやいた。

「陽葵」

「はい」

「本当は、ずっとそばにいて欲しい」

「うん」

 こんな彼に恋した私が悪いんだけど、本当に面倒で素直じゃないんだから。

 でも苦しかったのだろう、のんきな私と違って。

「陽葵は本当に僕でいいの? こんな年の離れたおじさんで。これからも先に年をとっていくのに」

「いいよ。でもできるだけ長生きして」

「はは、陽葵は強いなぁ。わかったよ、努力する」

「よかった、約束してね」

「うん」

 彼の心の鎖は解けたのだろうか。これからはもうちょっと素直になってくれるといいのだけれど。でも、今の彼を見ていたら、そんな心配はもういらないのかもしれない。

 私たちはここから歩き出すのだろう。きっと二人しっかりと手をつないでいれば、どんなことだって乗り越えていける。

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